
県域は、隆起と海退によって形成されていきました。
海面は、現在よりも高く、東京都江戸川区から県域南東部を中心とした海抜の低い地域は、
古東京湾の入り江が大きく入り込んでいたため、海底だったと考えられます。
その影響は、縄文・弥生時代まで続いた考えられています。
神武時代(紀元前660年)に天穂日命と共の出雲族27人の部族が東国経営のため、
下総国(現北葛飾郡鷲宮町)に入国、当地の鎮守として鷲宮神社創建されます。
古代の国選史書である『日本書紀』にある安閑天皇元年(534年)に、
「閏の十二月…(中略)…是の月に武蔵国造笠原直使主と同族小杵と国造を相争いて年経るに定めがたし」
云々とあり、鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による
武蔵国造の勢力争いが起き、朝廷の力を借りた直使主が勝利し、武蔵国造となった使主は朝廷に横渟
(多摩郡または横見郡)・橘花(神奈川県橘樹郡)・多氷(多摩)・倉樔(神奈川県久良郡)の四箇所を
屯倉として差し出します、と記述されていることや、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳郡、
および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国(関東地方)における中心だったと推測されます。
本県域は、律令制以前は、毛野国と呼ばれ、筑紫や吉備に比肩する大国であったとされ、
大和朝廷との関係において高い地位にあり、現在の東京地域よりも繁栄していたとされています。
1978年には、行田市埼玉にある さきたま風土記の丘(現さきたま古墳公園)の稲荷山古墳のなかから、
錆びた鉄剣が発掘され、元興寺文化財研究所で調べた所、表裏に金象嵌で115文字の銘文があることがわかり
一躍注目を浴びました。
その文中にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」は『記紀』に出てくる雄略天皇であり、『宋書』
倭国伝に見える倭王武なのです。
また、冒頭の「辛亥の年」は471年を意味します。
以上のような学説が主流であり、古代史ブームの巻き起こる中で、鉄剣の解釈をめぐりさまざまな議論が
なされています。
中世にはそれまで原野であった北武蔵の丘陵地や台地を開拓した武蔵武士が出現し、畠山氏や
河越氏ら諸氏を分出した秩父氏の一族や、同族集団として形成された武蔵七党など
中小規模の在地土豪となっていきました。
平治の乱を経て武蔵国が平氏の知行国になると武蔵守には平氏一門が任じられると武蔵武士は被官化し、
新恩地を得て西国へも進出していきます。
治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵後に服従した豪族には、県域に勢力を持っていた
秩父一族が主に頼朝に味方し、治承・寿永の内乱における合戦に参戦した。畠山氏や比企氏、
足立氏らは鎌倉幕府の創設期に重用されて政務に参画するが、幕府権力の確立課程ではそれぞれ没落し、
武蔵武士の地位は低下していくのです。
中世には鎌倉幕府の成立を契機に街道が整備され、北武蔵には南北に鎌倉街道の上道や中道が通じて
奥州方面と結ばれ、物資の流通路となったほか軍事的にも重視され、沿道には城館が分布していきます。
幹線道の整備に伴い脇道や水上交通も発達し、多くの市や宿が建築されました。
北武蔵は、古くから後北条氏の領国として繁栄し、天文10年(1541年)には重要拠点の川越城を巡り
関東管領の上杉憲政や古河公方と結んだ扇谷上杉氏と城の救援に向かった北条氏康との間で川越夜戦が行われ、
敗北した扇谷上杉氏は滅亡します。
後北条氏の勢力圏となった北武蔵には多くの支城が築かれ、氏康は扇谷上杉氏を支援した上杉憲政を圧迫します。
憲政は越後国守護代の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、関東管領職と上杉家家督を譲り受けた景虎は
関東出兵を行い氏康と争いました。
後北条氏は甲斐国の武田氏や駿河国の今川氏と三国同盟を結び景虎と争っていたが、
同盟破綻後の永禄12年(1569年)には越後と和睦して越相同盟を結び、武田氏の秩父方面への侵攻を招いています。
後北条氏は天正年間に最大領国となるが、織田信長・豊臣秀吉による天下統一過程で圧迫され、
天正18年(1590年)には秀吉の小田原攻めにより滅亡するのです。
後北条氏の滅亡後、北武蔵を含む関東へは徳川家康が移封され、徳川氏の家臣団が配置されました。